揺れ日記

熊本地震で被災。行政からも何の支援も無く一人で自費で県外避難転居しました。

崩れたまま

1年以上も経つのだから、

と言われるかもしれないけれども、

私の心と体は地震で崩れてしまったままで修復不可能だ。

 

被災後は食べること、お風呂、トイレ、洗濯…をどうするか

任期満了が迫り退職する日が間近な中で仕事と住まいをどうするか

ひとりで探し、様々な決断を強いられ

県外避難転居に踏み切ったあとは新しい環境と新しい仕事に慣れること

 

転居先では興味本位で根掘り葉掘り聞かれたり

失礼な言動に言い返す気力も無いくらいに疲れている。

 

ずっと心から休まる日は無く、

本当に、本当にもう疲れた。

きつすぎて涙すら出ない。

 

たぶん、わたしも含め

県外避難した人は皆

こんな思いでいるのかもしれない。

 

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一年前と一年後

ちょうど一年前のこの時期に、一時入居の宿舎を退去し、完全に熊本を離れ転居先での生活がスタートした。

あの頃は2回目の引っ越し荷造りや仕事や毎夜の揺れと大雨の警報で疲れてるのに眠れない日々だった。

 

しばらくは熊本での仕事の引き継ぎや手続きで行き来をしていたし、あと熊本の住んでいたマンションの違約金の件で揉めに揉めていて(結局無断で引き落とされていた)身も心も疲弊に疲弊しまくって、くったくただった。

 

毎日眺めていた白川は地震以来、茶色く泥水のように濁ったままでいつかまた元の白川に戻る日がくるのかなあ…とぼんやり考えていた。

 

 

一年後のいま、収入面でこれから先の事を考えたうえでの新たな仕事がスタートした。

 

このまま転居先で暮らす、というのも

思ってはみたけれども

地震の事を聞かれ、中には興味本位だったり、信じられないくらい失礼な事を言われたり。

でも話すことは避けられなくて

そのことがものすごく負担になっている…

 

初出勤を終え、帰るとポストに熊日が届いていた。

3月にアンケートが来てて県外避難者で希望すれば届くシステムがやっと稼働したようだ。

久々見る熊日を開くとポロポロ涙が溢れてしまう。

私は一年前のあの時のまま、止まっている。

もう、知らない土地で、ひとりでやっていくのは限界なのかもしれない。

 

今年度いっぱいを目処にと思っていたけれど、早めて今年いっぱいか、もう少し早めて熊本に帰るかと本格的に考えている。

 

ただ、住むところがあるのか、それだけが問題だ。

 

 

 

 

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死ぬことと生かされること

先ほど、大分を震源とする震度5強の地震が起きた。

不気味な長い揺れでそれは前震を思い出させ、怖くて仕方なかった。

幸いにも揺れは収まったが「前震の夜みたいに強くなったらどうしよう」と震えが止まらない。

今夜もまた明かりを点けて寝るしかない。寝るとき枕元にはスリッパを置くのが常となっている。

 

 

本震の、強烈な揺れとマンションが崩れそうな聞いたことない嫌な音を立てている最中、死はすぐそこにあった。

このまま揺れが強くなったら崩れるし、下敷きになって誰にも見つけられず死ぬんだな、まあいいや、でも、

痛いかな、あっという間に死ぬんかな。

そんな事も考えていた。

どうにかマンションは持ちこたえて

下敷きにならずには済んだけれど

翌朝避難所から部屋に戻って思ったのが

もし寝ていたら、倒れた家具で確実に下敷きになってて、大怪我か

いや、身動き出来なくて誰にも見つけられなくて死んでたかも…だった。

 

ギリギリのところで死なずに済んでいる。

 

 

 

あまり死に対して恐怖が無いのは

虐待やネグレクト的な家庭で、もう生きるのが辛くて子供ながらに自殺未遂をやってしまった事や、

20代半ばにして癌になり、死、が隣にあったからかもしれない。

 

手術を勧められたけれど、術後障害が残ってしまう確率が高く、さらに両親から障害残るなら生きててもしょんなかし、死亡保険金欲しかけん手術せんで死んでくれ(障害残るなら生きてても仕方ないし、死亡保険金が欲しいから手術しないで死んで欲しい)

と言われたのもあり、この人たちといいかげんもうこの辺で終わりにしたい…と思い主治医に

「手術受けなかったらどのくらい持ちますか?」と尋ねた。

当時、熊本には専門の医師がおらず、でも県外の病院で診察する気力も無く、何とか引き受けてくれた専門外の主治医は当然手術受けるんだろうと思っていたらしく、びっくりしながらも

「今は断定出来ないけど30歳までは生きられないと思って下さい」

 

そうか…あと数年はいけるのか…じゃあこのままでいいかな…

と死を決めたのに、未だに生きている。

 

それは手術したからで、何故そうなったかというと

癌が見つかったあとに仕事で知り合った、ある人にその旨を知らせると後日、長い長いメールが届いた。

癌の種類、傷跡や予後、術後の障害の確率や症例の多い病院まで隅々と調べ上げていた。

いろんなサイトや本で調べないとここまでは出来ない。

大丈夫だから、手術受けて生きなさい、とも書かれていた。

 

後にも先にも、付き合った人たちですら、ここまで調べ上げてくれた人はいない。

 

その人とは術後疎遠になって連絡しないまま今に至っているけれど、あの時のメールが無かったら手術しなかっただろう。

手術前夜、癌が残っててもいいから絶対に障害が残らないようにして欲しい。途中で閉じても構わないからと主治医に話し承諾書にその旨を追加として書いた。

おかげで障害は残らず、体調の不自由さや大変なことはあるけれどまだ生きている。

ギリギリのところで。

 

 

 

 

 

1年2か月後

地震後変わったことの中のひとつ。

仕事のある日は起きれなくなるから、

休みの前の夜に眠剤を飲む。

そうしないとしっかり眠れないからだ。

 

寝付きにくいのにどうにか寝付いても2〜3時間ごとに目が覚めてしまう。

眠りが浅くて昼間仕事中に眠くなってしまうから目覚めさせるドリンクやらコーヒーやら飲んで、どうにか仕事している。

胃が悪いのが続くのはこれも原因なんだけども、どうしようもないし、どうしようも出来ない。

 

地震後からぶつけてないのに手足に出血痕や紫斑が出ては消え出ては消えを繰り返すようになった。

最初は地震の疲れと、ろくに食べてないからかな、と思っていたけれど1年2ヶ月続いている。ぶつけてないから痛くはない。

 

先日足に大きめのがいくつか出た数日後、腕に紫斑がバラッと出ていて

またか…とじっと眺めていたら

わたし長くないのかもしれない、という思いが脳裏をよぎった。

 

 

 

残業と転職に関わる手続き諸々、内輪の送別会などで慌ただしく睡眠時間が4時間、という日が続く中、健康診断で熊本に帰った。

 もうとにかくだるすぎて頭痛はするし、行きの高速バスでも眠れないくらいで、検診先に着いたらぐったりしてしまった。

ぐったりしたまま検診先のあちこちで血圧やら視力やら計っていたら、

係の人から問診票見たけど大丈夫?と話しかけられた。

実は限界です…と地震後からの話をざっと話した。

係の人は私が20代まで住んでいた町、一番酷い被害の町に住んでいる、というのが分かった。

 

熊本の中でも被害に対する考え方に温度差があって、心無い言動に傷つく事がある、だから転居先で私が言われて傷つくのが分かる、と話してくれた。

そこに住む人にしか分からない辛さも。

 

転居したからもう忘れたんだろうとも言われるけれど、忘れられる訳がない。

ぼんやりした頭でこれからどうなるのかなと考えながら

私も、皆も、また心の底から楽しく笑える日が来るのかな。と思った。

 

辛いしきつい状況だけど、もしかしたら長く生きられないかもしれないなら、少しでも楽しもう、楽しめることを見つけよう。

夏に変わった青空を眺めながら

そう考えた。

 

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いつになったら

毎月14日と16日は私にとって忘れられない日になった。

あれから1年と2ヶ月。

 

時間が経っても、忘れることは出来ない。

いつも地震の事を考えている…ようにはならなくなってきたけれども、ふとした時に「ああ、蛇口から水が出るってありがたいなあ」とか「トイレが流せるって便利よねぇ」とかスーパーやコンビニでは「棚に食べ物がいっぱいある…」なんて思ってしまう。

 

地震の影響はまだあって、とにかく今は決まった新たな仕事に慣れて、バイトしたり持ち物を売らなくても生活が円滑に出来るように立て直すこと、自費で転居した分の補填や熊本に戻ってもいいように、その引越し費用を貯めること、とにかくまだまだ切り詰めること。だ。

いつになったら落ち着くのかなあ、と

一年前からずっと思っている。

 

先日、今の職場で内々の送別会があった。つい避難生活の話をしてしまったが、皆そんなにひどい状況だったなんて…と言っていた。

引き続き避難所にいた人びとは菓子パンや缶詰だけとか毎日コンビニ弁当の食生活とか、お店は時間制限あるし開いてるとこ少ないし、第一商品が少なくて買えなかったですね、と話すと

 

「でもせいぜい2〜3日とか一週間とかでしょ」

 

絶句したけど、避難所のその食生活、数ヶ月続いてたし、私だって宿舎に入居して落ち着くまで1ヶ月ロクなもの食べられなかったし、県外に引越しもあったからまた食生活ボロボロになってたし。

だから今でも胃が変なんですよね。

湿疹もなかなか治らなかったし。

菓子パンはもう見たくないくらいで食べたくないし、頭は染めてるけれどほぼ全部白髪になってしまいましたしね。

そうそう夏頃になるとだいぶ買えるの増えてきたかなあ…

と話すと今度は皆が絶句していた。

 

でも、話すと分かるけれども

熊本の皆、良くあの状況で耐えていたなあ、って思うんです。

良く今まで頑張ってきたなあって。

 

もう頑張らなくていい。

我慢しなくていい。

ワガママって言われてもいい。

それだけ辛かったんだから。

私はそう自分に言い聞かせています。

 

 

 

 

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新しい生活へ

来月で熊本を離れて1年になる。

義援金の類は無く、自費で避難転居した訳だが、未だにその支払の影響があり、初めて税金を滞納したし、仕事は派遣だし生活するので精一杯。

具合が悪くても病院へ行けず、夜食べないとか食事を減らしている時もある。

 

熊本を出るまでの数ヶ月、熊本の住まいと宿舎と転居地の住まいの3箇所分の家賃や光熱費の支払、行き来する交通費、宿泊費、2回分の引っ越し、どうにか使えるが地震の衝撃で調子が悪くなってしまった家電の買い替え、水もガスも使えず食事が作れなくて買い食いが増えて食費もかなり膨らんだ。

 

 

どうして熊本離れたの?と今の職場の上司たちから言われるけど、事情を知らないくせに、と思ってしまう。

けれども、本当にこれで良かったのか

地震の後で正常な判断が難しかったんじゃないのか?などと考え落ち込んでしまうのが増えている。

 

地震、被災生活の中で住んでいたマンションを退去せざるを得なくなり、職場の好意で宿舎に一時入居させてもらったが、元々決まっていた退職を控えているのもあり、すぐ出なくてはならない。

 

やばい。早く新しく住処を決めねば

住所不定無職、になってしまう。

 

熊本で住まいを探そうにも不動産屋は閉まったまま、というより建物が被害に遭っていて

開けられないのだ。(他にコンビニやスーパーなどもそんな状態でした)

かろうじて数時間開いている不動産屋もあったが大行列。

予約しないと受付してもらえない、物件自体被害が多く大きすぎて入居出来ない…

 

熊本の公営住宅の類も全壊した人や家族優先でとてもじゃないけど働いている単身者は入居出来ず、実際断られた。

じわじわ追い詰められ、ふと「どうせ一人だし、仕事探す事も考えると熊本出た方がいいんじゃない?」と思いついた。

 

そして寝泊まりしていた職場で、隣県の不動産情報を検索してみたのがきっかけだった。

仕事が熊本だったため審査も通らず大変だったが、不動産屋が助言したりしてくれて

やっと住む場所が決まったのだった。

ダメかも、と諦めかけたけれど、ふっと道が開けるように転居が決まった。

 

その後、今の仕事が決まったのだが、

様々な困った事があったりで新たな仕事を探していたが、なかなか決まらず諦めて契約更新した矢先に私の経歴を活かせる、ある仕事にまた、ふっと不思議に決まった。

 

世の中には良く分からない事があるなあと思う。

今度の仕事は少しだけど時給アップするから、生活費の為に本や服や持ち物を売らなくても、副業でバイトしなくても良くなる。

しばらくは大節約生活だけども。

 

まだ熊本に戻るか分からないけれど

これで引っ越し代を貯める事ができる。

節約は慣れているけど、地震後から綱渡りの生活で本当にきつかったのだ。

 

 

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揺れる思い

昨年、2度にわたる大地震を経験した。

文字や言葉に出来ない、経験しないと分からない恐怖と数分おきの余震が続く中での不自由な暮らし、県外避難と日常生活そのものが一瞬にして崩れた経緯を忘れないために備忘録として日記にすることにした。

 

題名は地震そのものと次々と様々な決断を強いられたりして、不安な心の「揺れ」を入れようと決めた。

 

いまはフラッシュバックや避難転居地と熊本との狭間で心はあの時の震度並みに揺れて崩れている。

 

先週、転居地でM7クラスの地震が発生する、とかいう情報が飛び交い結局誤報というかそんな情報だったらしいが、ひどく無神経な出来事があった。

 

転居して得た職場で、ある人が「ほら、地震くるってよ」と何か面白い事があるぞ、とニヤニヤしながらその情報の携帯画面をつきつけてきた。

突然の事で何も言えなかったが、後で私たち被災者に対して失礼だ、と怒りにふるえた。

その人は私も含めあちこちの人に随分と迷惑行為を続けていたりと困った人で嫌われている。

勿論地震の事も平気で私の目の前で「どうせ人ごとだから」と言う。

 

だからまたか…と思ったが、数日してまた

地震来なかったですねぇ」とまた面白い事が無かったなあという感じでニヤニヤしながら言ってきた。

さすがにカチンと来たので、正式な情報ではない事を厳しい口調で言った。

あと地震以来、眠れない毎日であることも。

 

 

 

 

 

 

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