揺れ日記

熊本地震で被災。行政からも何の支援も無く一人で自費で県外避難転居しました。

戻りたい戻れないもどかしい

熊本に戻りたいとかつぶやきながら何もしてない訳では無く、前の勤め先や市役所やら、あちこちの求人を毎日毎日見ている。

あっ、と思った募集も勤務開始日が近いものばかり。タイミングが合わない。

引越しが絡むので、直ぐの勤務が出来ないからなかなか難しい。

 

実は今年の春先にある所に応募し面接、となったけれど仕事の都合で辞退せざるを得なくなってしまった。

ただもし、仮に決まったとしても住む部屋、賃貸物件がほとんど無かったという状況だったからどうなっていたのだろうかとも思う。

 

少し前に熊本県が開催した就職セミナー、とやらにも会社を休んで参加してきた。

有給がまだ無いので欠勤になるから無給になるけれど、それより熊本に戻るための方が優先だったし、職場のストレスが蓄積されてどうにも我慢の限界に達していて、欠勤もやむなしで行くことにした。

 

まあ、いくつか良いかなという企業があって面接に…という話になったけれど

蓋を開けたら物凄く安い時給制とか、パートアルバイト扱いだったりで、これでは賃貸物件の審査が通らないし、部屋が借りられても生活が厳しくなるのは明らかで、一旦全て辞退した。

 

今までだったら相手の事を考えずに待遇の事だけを言ってしまってたんだろうけれど、今回はやんわりとだけど相手が納得いく理由を考えて、穏やかに済むように辞退の旨を伝えた。

 

今はどうにも動けない時なのかな、と

思ってあと少し、じっと待機することに決める。

 

今の職場からなかなか更新の回答が無く、来月から無職かな、ならばしばらく何もかも放り出して、頭からっぽにする旅に出てみようかなとかつらつら思っていたら年内いっぱい更新になった。

 

あと少し、あと少し。

もどかしいけれど熊本の求人検索しながら年明けまで待ってみよう。

 

 

 

 

無題

台風だとある程度には事前に心構えや避難の準備が可能だけど、特に地震は本当に何の前触れもなく突然やってくる。

だからあの時の恐怖が皮膚の奥深くまで刺さった棘みたいで、膿んで腫れ上がり痛みを増し、それでも棘はなかなか抜けない。そんな感じ。

 

熊本を離れるまでは皆が被災者で、見渡すと誰もが不自由な生活を強いられていた。

熊本を離れると余震からくる体調不良が無く、安心したのだけれど

今度は地震を「知らない」人々の無知さに振り回されてしまう。

 

早いうちから報道が少なくなってしまったのが原因だろう。

無知ゆえの言動からか、私は怒りの感情が増え、未だに苛立ちと歯がゆさの中にいる。

 

 

恐ろしい揺れの中で、怪我するかもしれない中どうにか避難所まで行き、寒さに震えながら眠れない夜を過ごしていた時にも

水や食料が手に入らず、どうしたらいいか路頭に迷っていた時も

洗濯やシャワーやトイレが使えない、普通の生活が出来ない中もがいていた時も

今後の住処と仕事をどうするかと悩んでいた時も

この人らはいつも通りに仕事に出掛け、コンビニやスーパーでは溢れんばかりの食材から食べたいものを選び、酒を飲んだり温かい食事をし、お湯をふんだんに使った風呂に入り、テレビを見て笑い、暖かい布団で寝、それが当たり前、と過ごしていたのだよな…と、どうしようもない事を考えてしまう。

 

まだ醒めない夢の中にいるような感覚で、ぼんやりした世界で生きているような、そんな毎日で、これからの事を考えると不安でしか無くて、しかも暑さで気力も無くなり大丈夫大丈夫と言いながらも、いつも死にたい死にたい…と考えるようになってもう、どん底だった。

 

どん底な中で、どうせ死ぬなら最後は美味しいもん食べるとかして、少しでも楽しかったなあって思ってからがいいなとも考えていたら本当に美味しいものが送られてきて、嬉しくてわあわあ泣いた。

おかげで今は少しだけどん底から泥だらけになりつつ這い上がってきています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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便利さと住みやすさの狭間で

熊本にいた頃、わたしが今住んでいる転居先の街は便利で魅力的としか映らず、

その便利さは政令指定都市とはいえまだまだ田舎な部分が多い熊本には無いもので辟易していた。

 

福岡の天神というエリアは九州最大の繁華街らしく数々のファッションビルやら何やらとにかくいろいろある。

おまけに南北にダーンと地下街まであり雨にも濡れずあちこちへ移動が出来る。

転居後、通勤で足繁く通ったせいかやっとこの地下街にも慣れたころ、熊本にも系列店舗があるお店を見つけたので、立ち寄ってみた。

仕事でもOKで値段も手頃なシャツがあったので、買おうとレジに向かうも誰もいない。

呼びかけても無視、舌打ちしながらやっと来た店員は畳みもせずぐしゃりと雑に袋に入れ、一言「おばさんが来るんじゃねえよ」

買うのやめるかなと思ったけれど癪なので普通に買い、帰ってから気持ちを落ち着かせてサイトから苦情のメールを送った。

数日して申し訳ありませんでしたとか、ありきたりな一文のメールが届いただけだった。

シャツはゴワゴワして着づらく、ほとんど着てないし、この地下街は移動のために通るだけになってしまった。

 

遡ること冬に熊本に帰った際にこの系列のお店で、ものすごく本当にものすごく安くなってて、色も型も丁度良いコートを見つけたけれど今ひとつ自信が無くて店員さんに

「私みたいなのが買っていいかな、おばちゃんだし」みたいな事を言うと「そんな事ないですよ!おしゃれするのは年齢関係ないですし、これはスタンダードな型だから大丈夫」と熱く語られ、買ったコートは冬の間、私の身体を暖めてくれて通勤に役立った。

 

熊本を離れた事で実は穏やかで住みやすい街だった、というのに気づいたし

今住んでいる所はとても便利だし、仕事もたくさんあるけれど

どうも人が冷たく感じられたり、物騒な事も多く住みやすいかというと微妙かなと思うようになった。

 

実際住んで仕事をしてみたから分かったことで、だからといって今住んでいるこの地は嫌いではない。

でも、早く熊本に戻りたいし実際戻るだろう。

暮らすのはちょっと田舎かなと思うくらいが丁度いいのかもしれない。

 

戻りたいけど戻れない

あの頃は精神的にも肉体的にも限界で、とにかく熊本を離れないと…という考えしかなくて転居する事にしたのだけれど

本当にこれで良かったのかなという思いで毎日くよくよしている。

 

というのも、こちらで就業して(派遣だけども)2社目なのだけれど、双方とも仕事というより職場環境が何とも言えないくらいに悪い。

 

最初に働いた会社は初日から「教えても無駄」とか「自分でやるから」などと言われ放置されて2ヶ月ほどほとんど仕事が無い状況だったのを派遣会社に話して苦情申入したり色々頑張ったけれど

今度は説明無しで丸投げされたりして

状況は余り変わらなかった。

 

今働いている会社は時給こそ良いけれど

挨拶しても無視され(というより皆出勤時に挨拶無しで黙って入ってくるのに驚いた)喋る事を禁じられ、必要な場合はひそひそ声で、マウスのクリック音ですら睨まれるので、とにかく静かにしていなくてはならず苦行の毎日だ。

だから聞きたい事があっても聞けなくなってしまい、ストレスで下痢と嘔吐と胃痛と不正出血とで早くも体はガタガタである。

またこの会社も初日から仕事に関する事も何の説明も無くいきなり放置され(またここもか…)とがっくりしたのだった。

 

言っては何だが転居するまではどこの職場でも仕事バリバリ出来る人で評価されてたし、辞める時は何故か他部署や清掃や警備の人からも挨拶されたり花束を貰ったりというのもたくさんあった。

 

熊本では新しく入ってきた人を丸無視するような事は無かったので、これは県民性なのかなーと思うことにしたけれども、またここで他に仕事を探し、働き、生活するということにほとほと疲れてしまった。

働くことがずっと好きだったこの私が働きたく無いと思っている。危ない。

 

ここに住むのはもう限界で、すぐ熊本に戻りたくても賃貸契約は仕事が決まってないと出来ないし、保証人不要物件がほとんど無いに等しくて、この先どうしたらいいんだろうかと思ってしまう。

 

とにかく、今は地震から溜め込んだ様々な疲れが酷くて何もかも放り出してしまいたいし、いろんな事を考えたくないと思っているけれど、私がこんな風になるのは赤信号なのかもしれない。

また死にたい感情が復活してきつつあるのか道路にふらりと飛び出してしまいそうになった。

 

 

 

 

 

 

 

今まで私や周りが実践してきた事が突き返されるような

 

崩れたまま

1年以上も経つのだから、

と言われるかもしれないけれども、

私の心と体は地震で崩れてしまったままで修復不可能だ。

 

被災後は食べること、お風呂、トイレ、洗濯…をどうするか

任期満了が迫り退職する日が間近な中で仕事と住まいをどうするか

ひとりで探し、様々な決断を強いられ

県外避難転居に踏み切ったあとは新しい環境と新しい仕事に慣れること

 

転居先では興味本位で根掘り葉掘り聞かれたり

失礼な言動に言い返す気力も無いくらいに疲れている。

 

ずっと心から休まる日は無く、

本当に、本当にもう疲れた。

きつすぎて涙すら出ない。

 

たぶん、わたしも含め

県外避難した人は皆

こんな思いでいるのかもしれない。

 

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一年前と一年後

ちょうど一年前のこの時期に、一時入居の宿舎を退去し、完全に熊本を離れ転居先での生活がスタートした。

あの頃は2回目の引っ越し荷造りや仕事や毎夜の揺れと大雨の警報で疲れてるのに眠れない日々だった。

 

しばらくは熊本での仕事の引き継ぎや手続きで行き来をしていたし、あと熊本の住んでいたマンションの違約金の件で揉めに揉めていて(結局無断で引き落とされていた)身も心も疲弊に疲弊しまくって、くったくただった。

 

毎日眺めていた白川は地震以来、茶色く泥水のように濁ったままでいつかまた元の白川に戻る日がくるのかなあ…とぼんやり考えていた。

 

 

一年後のいま、収入面でこれから先の事を考えたうえでの新たな仕事がスタートした。

 

このまま転居先で暮らす、というのも

思ってはみたけれども

地震の事を聞かれ、中には興味本位だったり、信じられないくらい失礼な事を言われたり。

でも話すことは避けられなくて

そのことがものすごく負担になっている…

 

初出勤を終え、帰るとポストに熊日が届いていた。

3月にアンケートが来てて県外避難者で希望すれば届くシステムがやっと稼働したようだ。

久々見る熊日を開くとポロポロ涙が溢れてしまう。

私は一年前のあの時のまま、止まっている。

もう、知らない土地で、ひとりでやっていくのは限界なのかもしれない。

 

今年度いっぱいを目処にと思っていたけれど、早めて今年いっぱいか、もう少し早めて熊本に帰るかと本格的に考えている。

 

ただ、住むところがあるのか、それだけが問題だ。

 

 

 

 

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死ぬことと生かされること

先ほど、大分を震源とする震度5強の地震が起きた。

不気味な長い揺れでそれは前震を思い出させ、怖くて仕方なかった。

幸いにも揺れは収まったが「前震の夜みたいに強くなったらどうしよう」と震えが止まらない。

今夜もまた明かりを点けて寝るしかない。寝るとき枕元にはスリッパを置くのが常となっている。

 

 

本震の、強烈な揺れとマンションが崩れそうな聞いたことない嫌な音を立てている最中、死はすぐそこにあった。

このまま揺れが強くなったら崩れるし、下敷きになって誰にも見つけられず死ぬんだな、まあいいや、でも、

痛いかな、あっという間に死ぬんかな。

そんな事も考えていた。

どうにかマンションは持ちこたえて

下敷きにならずには済んだけれど

翌朝避難所から部屋に戻って思ったのが

もし寝ていたら、倒れた家具で確実に下敷きになってて、大怪我か

いや、身動き出来なくて誰にも見つけられなくて死んでたかも…だった。

 

ギリギリのところで死なずに済んでいる。

 

 

 

あまり死に対して恐怖が無いのは

虐待やネグレクト的な家庭で、もう生きるのが辛くて子供ながらに自殺未遂をやってしまった事や、

20代半ばにして癌になり、死、が隣にあったからかもしれない。

 

手術を勧められたけれど、術後障害が残ってしまう確率が高く、さらに両親から障害残るなら生きててもしょんなかし、死亡保険金欲しかけん手術せんで死んでくれ(障害残るなら生きてても仕方ないし、死亡保険金が欲しいから手術しないで死んで欲しい)

と言われたのもあり、この人たちといいかげんもうこの辺で終わりにしたい…と思い主治医に

「手術受けなかったらどのくらい持ちますか?」と尋ねた。

当時、熊本には専門の医師がおらず、でも県外の病院で診察する気力も無く、何とか引き受けてくれた専門外の主治医は当然手術受けるんだろうと思っていたらしく、びっくりしながらも

「今は断定出来ないけど30歳までは生きられないと思って下さい」

 

そうか…あと数年はいけるのか…じゃあこのままでいいかな…

と死を決めたのに、未だに生きている。

 

それは手術したからで、何故そうなったかというと

癌が見つかったあとに仕事で知り合った、ある人にその旨を知らせると後日、長い長いメールが届いた。

癌の種類、傷跡や予後、術後の障害の確率や症例の多い病院まで隅々と調べ上げていた。

いろんなサイトや本で調べないとここまでは出来ない。

大丈夫だから、手術受けて生きなさい、とも書かれていた。

 

後にも先にも、付き合った人たちですら、ここまで調べ上げてくれた人はいない。

 

その人とは術後疎遠になって連絡しないまま今に至っているけれど、あの時のメールが無かったら手術しなかっただろう。

手術前夜、癌が残っててもいいから絶対に障害が残らないようにして欲しい。途中で閉じても構わないからと主治医に話し承諾書にその旨を追加として書いた。

おかげで障害は残らず、体調の不自由さや大変なことはあるけれどまだ生きている。

ギリギリのところで。