揺れ日記

熊本地震で被災。行政からも何の支援も無く一人で自費で県外避難転居しました。

便利さと住みやすさの狭間で

熊本にいた頃、わたしが今住んでいる転居先の街は便利で魅力的としか映らず、

その便利さは政令指定都市とはいえまだまだ田舎な部分が多い熊本には無いもので辟易していた。

 

福岡の天神というエリアは九州最大の繁華街らしく数々のファッションビルやら何やらとにかくいろいろある。

おまけに南北にダーンと地下街まであり雨にも濡れずあちこちへ移動が出来る。

転居後、通勤で足繁く通ったせいかやっとこの地下街にも慣れたころ、熊本にも系列店舗があるお店を見つけたので、立ち寄ってみた。

仕事でもOKで値段も手頃なシャツがあったので、買おうとレジに向かうも誰もいない。

呼びかけても無視、舌打ちしながらやっと来た店員は畳みもせずぐしゃりと雑に袋に入れ、一言「おばさんが来るんじゃねえよ」

買うのやめるかなと思ったけれど癪なので普通に買い、帰ってから気持ちを落ち着かせてサイトから苦情のメールを送った。

数日して申し訳ありませんでしたとか、ありきたりな一文のメールが届いただけだった。

シャツはゴワゴワして着づらく、ほとんど着てないし、この地下街は移動のために通るだけになってしまった。

 

遡ること冬に熊本に帰った際にこの系列のお店で、ものすごく本当にものすごく安くなってて、色も型も丁度良いコートを見つけたけれど今ひとつ自信が無くて店員さんに

「私みたいなのが買っていいかな、おばちゃんだし」みたいな事を言うと「そんな事ないですよ!おしゃれするのは年齢関係ないですし、これはスタンダードな型だから大丈夫」と熱く語られ、買ったコートは冬の間、私の身体を暖めてくれて通勤に役立った。

 

熊本を離れた事で実は穏やかで住みやすい街だった、というのに気づいたし

今住んでいる所はとても便利だし、仕事もたくさんあるけれど

どうも人が冷たく感じられたり、物騒な事も多く住みやすいかというと微妙かなと思うようになった。

 

実際住んで仕事をしてみたから分かったことで、だからといって今住んでいるこの地は嫌いではない。

でも、早く熊本に戻りたいし実際戻るだろう。

暮らすのはちょっと田舎かなと思うくらいが丁度いいのかもしれない。

 

戻りたいけど戻れない

あの頃は精神的にも肉体的にも限界で、とにかく熊本を離れないと…という考えしかなくて転居する事にしたのだけれど

本当にこれで良かったのかなという思いで毎日くよくよしている。

 

というのも、こちらで就業して(派遣だけども)2社目なのだけれど、双方とも仕事というより職場環境が何とも言えないくらいに悪い。

 

最初に働いた会社は初日から「教えても無駄」とか「自分でやるから」などと言われ放置されて2ヶ月ほどほとんど仕事が無い状況だったのを派遣会社に話して苦情申入したり色々頑張ったけれど

今度は説明無しで丸投げされたりして

状況は余り変わらなかった。

 

今働いている会社は時給こそ良いけれど

挨拶しても無視され(というより皆出勤時に挨拶無しで黙って入ってくるのに驚いた)喋る事を禁じられ、必要な場合はひそひそ声で、マウスのクリック音ですら睨まれるので、とにかく静かにしていなくてはならず苦行の毎日だ。

だから聞きたい事があっても聞けなくなってしまい、ストレスで下痢と嘔吐と胃痛と不正出血とで早くも体はガタガタである。

またこの会社も初日から仕事に関する事も何の説明も無くいきなり放置され(またここもか…)とがっくりしたのだった。

 

言っては何だが転居するまではどこの職場でも仕事バリバリ出来る人で評価されてたし、辞める時は何故か他部署や清掃や警備の人からも挨拶されたり花束を貰ったりというのもたくさんあった。

 

熊本では新しく入ってきた人を丸無視するような事は無かったので、これは県民性なのかなーと思うことにしたけれども、またここで他に仕事を探し、働き、生活するということにほとほと疲れてしまった。

働くことがずっと好きだったこの私が働きたく無いと思っている。危ない。

 

ここに住むのはもう限界で、すぐ熊本に戻りたくても賃貸契約は仕事が決まってないと出来ないし、保証人不要物件がほとんど無いに等しくて、この先どうしたらいいんだろうかと思ってしまう。

 

とにかく、今は地震から溜め込んだ様々な疲れが酷くて何もかも放り出してしまいたいし、いろんな事を考えたくないと思っているけれど、私がこんな風になるのは赤信号なのかもしれない。

また死にたい感情が復活してきつつあるのか道路にふらりと飛び出してしまいそうになった。

 

 

 

 

 

 

 

今まで私や周りが実践してきた事が突き返されるような

 

崩れたまま

1年以上も経つのだから、

と言われるかもしれないけれども、

私の心と体は地震で崩れてしまったままで修復不可能だ。

 

被災後は食べること、お風呂、トイレ、洗濯…をどうするか

任期満了が迫り退職する日が間近な中で仕事と住まいをどうするか

ひとりで探し、様々な決断を強いられ

県外避難転居に踏み切ったあとは新しい環境と新しい仕事に慣れること

 

転居先では興味本位で根掘り葉掘り聞かれたり

失礼な言動に言い返す気力も無いくらいに疲れている。

 

ずっと心から休まる日は無く、

本当に、本当にもう疲れた。

きつすぎて涙すら出ない。

 

たぶん、わたしも含め

県外避難した人は皆

こんな思いでいるのかもしれない。

 

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一年前と一年後

ちょうど一年前のこの時期に、一時入居の宿舎を退去し、完全に熊本を離れ転居先での生活がスタートした。

あの頃は2回目の引っ越し荷造りや仕事や毎夜の揺れと大雨の警報で疲れてるのに眠れない日々だった。

 

しばらくは熊本での仕事の引き継ぎや手続きで行き来をしていたし、あと熊本の住んでいたマンションの違約金の件で揉めに揉めていて(結局無断で引き落とされていた)身も心も疲弊に疲弊しまくって、くったくただった。

 

毎日眺めていた白川は地震以来、茶色く泥水のように濁ったままでいつかまた元の白川に戻る日がくるのかなあ…とぼんやり考えていた。

 

 

一年後のいま、収入面でこれから先の事を考えたうえでの新たな仕事がスタートした。

 

このまま転居先で暮らす、というのも

思ってはみたけれども

地震の事を聞かれ、中には興味本位だったり、信じられないくらい失礼な事を言われたり。

でも話すことは避けられなくて

そのことがものすごく負担になっている…

 

初出勤を終え、帰るとポストに熊日が届いていた。

3月にアンケートが来てて県外避難者で希望すれば届くシステムがやっと稼働したようだ。

久々見る熊日を開くとポロポロ涙が溢れてしまう。

私は一年前のあの時のまま、止まっている。

もう、知らない土地で、ひとりでやっていくのは限界なのかもしれない。

 

今年度いっぱいを目処にと思っていたけれど、早めて今年いっぱいか、もう少し早めて熊本に帰るかと本格的に考えている。

 

ただ、住むところがあるのか、それだけが問題だ。

 

 

 

 

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死ぬことと生かされること

先ほど、大分を震源とする震度5強の地震が起きた。

不気味な長い揺れでそれは前震を思い出させ、怖くて仕方なかった。

幸いにも揺れは収まったが「前震の夜みたいに強くなったらどうしよう」と震えが止まらない。

今夜もまた明かりを点けて寝るしかない。寝るとき枕元にはスリッパを置くのが常となっている。

 

 

本震の、強烈な揺れとマンションが崩れそうな聞いたことない嫌な音を立てている最中、死はすぐそこにあった。

このまま揺れが強くなったら崩れるし、下敷きになって誰にも見つけられず死ぬんだな、まあいいや、でも、

痛いかな、あっという間に死ぬんかな。

そんな事も考えていた。

どうにかマンションは持ちこたえて

下敷きにならずには済んだけれど

翌朝避難所から部屋に戻って思ったのが

もし寝ていたら、倒れた家具で確実に下敷きになってて、大怪我か

いや、身動き出来なくて誰にも見つけられなくて死んでたかも…だった。

 

ギリギリのところで死なずに済んでいる。

 

 

 

あまり死に対して恐怖が無いのは

虐待やネグレクト的な家庭で、もう生きるのが辛くて子供ながらに自殺未遂をやってしまった事や、

20代半ばにして癌になり、死、が隣にあったからかもしれない。

 

手術を勧められたけれど、術後障害が残ってしまう確率が高く、さらに両親から障害残るなら生きててもしょんなかし、死亡保険金欲しかけん手術せんで死んでくれ(障害残るなら生きてても仕方ないし、死亡保険金が欲しいから手術しないで死んで欲しい)

と言われたのもあり、この人たちといいかげんもうこの辺で終わりにしたい…と思い主治医に

「手術受けなかったらどのくらい持ちますか?」と尋ねた。

当時、熊本には専門の医師がおらず、でも県外の病院で診察する気力も無く、何とか引き受けてくれた専門外の主治医は当然手術受けるんだろうと思っていたらしく、びっくりしながらも

「今は断定出来ないけど30歳までは生きられないと思って下さい」

 

そうか…あと数年はいけるのか…じゃあこのままでいいかな…

と死を決めたのに、未だに生きている。

 

それは手術したからで、何故そうなったかというと

癌が見つかったあとに仕事で知り合った、ある人にその旨を知らせると後日、長い長いメールが届いた。

癌の種類、傷跡や予後、術後の障害の確率や症例の多い病院まで隅々と調べ上げていた。

いろんなサイトや本で調べないとここまでは出来ない。

大丈夫だから、手術受けて生きなさい、とも書かれていた。

 

後にも先にも、付き合った人たちですら、ここまで調べ上げてくれた人はいない。

 

その人とは術後疎遠になって連絡しないまま今に至っているけれど、あの時のメールが無かったら手術しなかっただろう。

手術前夜、癌が残っててもいいから絶対に障害が残らないようにして欲しい。途中で閉じても構わないからと主治医に話し承諾書にその旨を追加として書いた。

おかげで障害は残らず、体調の不自由さや大変なことはあるけれどまだ生きている。

ギリギリのところで。

 

 

 

 

 

1年2か月後

地震後変わったことの中のひとつ。

仕事のある日は起きれなくなるから、

休みの前の夜に眠剤を飲む。

そうしないとしっかり眠れないからだ。

 

寝付きにくいのにどうにか寝付いても2〜3時間ごとに目が覚めてしまう。

眠りが浅くて昼間仕事中に眠くなってしまうから目覚めさせるドリンクやらコーヒーやら飲んで、どうにか仕事している。

胃が悪いのが続くのはこれも原因なんだけども、どうしようもないし、どうしようも出来ない。

 

地震後からぶつけてないのに手足に出血痕や紫斑が出ては消え出ては消えを繰り返すようになった。

最初は地震の疲れと、ろくに食べてないからかな、と思っていたけれど1年2ヶ月続いている。ぶつけてないから痛くはない。

 

先日足に大きめのがいくつか出た数日後、腕に紫斑がバラッと出ていて

またか…とじっと眺めていたら

わたし長くないのかもしれない、という思いが脳裏をよぎった。

 

 

 

残業と転職に関わる手続き諸々、内輪の送別会などで慌ただしく睡眠時間が4時間、という日が続く中、健康診断で熊本に帰った。

 もうとにかくだるすぎて頭痛はするし、行きの高速バスでも眠れないくらいで、検診先に着いたらぐったりしてしまった。

ぐったりしたまま検診先のあちこちで血圧やら視力やら計っていたら、

係の人から問診票見たけど大丈夫?と話しかけられた。

実は限界です…と地震後からの話をざっと話した。

係の人は私が20代まで住んでいた町、一番酷い被害の町に住んでいる、というのが分かった。

 

熊本の中でも被害に対する考え方に温度差があって、心無い言動に傷つく事がある、だから転居先で私が言われて傷つくのが分かる、と話してくれた。

そこに住む人にしか分からない辛さも。

 

転居したからもう忘れたんだろうとも言われるけれど、忘れられる訳がない。

ぼんやりした頭でこれからどうなるのかなと考えながら

私も、皆も、また心の底から楽しく笑える日が来るのかな。と思った。

 

辛いしきつい状況だけど、もしかしたら長く生きられないかもしれないなら、少しでも楽しもう、楽しめることを見つけよう。

夏に変わった青空を眺めながら

そう考えた。

 

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いつになったら

毎月14日と16日は私にとって忘れられない日になった。

あれから1年と2ヶ月。

 

時間が経っても、忘れることは出来ない。

いつも地震の事を考えている…ようにはならなくなってきたけれども、ふとした時に「ああ、蛇口から水が出るってありがたいなあ」とか「トイレが流せるって便利よねぇ」とかスーパーやコンビニでは「棚に食べ物がいっぱいある…」なんて思ってしまう。

 

地震の影響はまだあって、とにかく今は決まった新たな仕事に慣れて、バイトしたり持ち物を売らなくても生活が円滑に出来るように立て直すこと、自費で転居した分の補填や熊本に戻ってもいいように、その引越し費用を貯めること、とにかくまだまだ切り詰めること。だ。

いつになったら落ち着くのかなあ、と

一年前からずっと思っている。

 

先日、今の職場で内々の送別会があった。つい避難生活の話をしてしまったが、皆そんなにひどい状況だったなんて…と言っていた。

引き続き避難所にいた人びとは菓子パンや缶詰だけとか毎日コンビニ弁当の食生活とか、お店は時間制限あるし開いてるとこ少ないし、第一商品が少なくて買えなかったですね、と話すと

 

「でもせいぜい2〜3日とか一週間とかでしょ」

 

絶句したけど、避難所のその食生活、数ヶ月続いてたし、私だって宿舎に入居して落ち着くまで1ヶ月ロクなもの食べられなかったし、県外に引越しもあったからまた食生活ボロボロになってたし。

だから今でも胃が変なんですよね。

湿疹もなかなか治らなかったし。

菓子パンはもう見たくないくらいで食べたくないし、頭は染めてるけれどほぼ全部白髪になってしまいましたしね。

そうそう夏頃になるとだいぶ買えるの増えてきたかなあ…

と話すと今度は皆が絶句していた。

 

でも、話すと分かるけれども

熊本の皆、良くあの状況で耐えていたなあ、って思うんです。

良く今まで頑張ってきたなあって。

 

もう頑張らなくていい。

我慢しなくていい。

ワガママって言われてもいい。

それだけ辛かったんだから。

私はそう自分に言い聞かせています。

 

 

 

 

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