揺れ日記

熊本地震で被災。行政からも何の支援も無く一人で自費で県外避難転居しました。

死ぬことと生かされること

先ほど、大分を震源とする震度5強の地震が起きた。

不気味な長い揺れでそれは前震を思い出させ、怖くて仕方なかった。

幸いにも揺れは収まったが「前震の夜みたいに強くなったらどうしよう」と震えが止まらない。

今夜もまた明かりを点けて寝るしかない。寝るとき枕元にはスリッパを置くのが常となっている。

 

 

本震の、強烈な揺れとマンションが崩れそうな聞いたことない嫌な音を立てている最中、死はすぐそこにあった。

このまま揺れが強くなったら崩れるし、下敷きになって誰にも見つけられず死ぬんだな、まあいいや、でも、

痛いかな、あっという間に死ぬんかな。

そんな事も考えていた。

どうにかマンションは持ちこたえて

下敷きにならずには済んだけれど

翌朝避難所から部屋に戻って思ったのが

もし寝ていたら、倒れた家具で確実に下敷きになってて、大怪我か

いや、身動き出来なくて誰にも見つけられなくて死んでたかも…だった。

 

ギリギリのところで死なずに済んでいる。

 

 

 

あまり死に対して恐怖が無いのは

虐待やネグレクト的な家庭で、もう生きるのが辛くて子供ながらに自殺未遂をやってしまった事や、

20代半ばにして癌になり、死、が隣にあったからかもしれない。

 

手術を勧められたけれど、術後障害が残ってしまう確率が高く、さらに両親から障害残るなら生きててもしょんなかし、死亡保険金欲しかけん手術せんで死んでくれ(障害残るなら生きてても仕方ないし、死亡保険金が欲しいから手術しないで死んで欲しい)

と言われたのもあり、この人たちといいかげんもうこの辺で終わりにしたい…と思い主治医に

「手術受けなかったらどのくらい持ちますか?」と尋ねた。

当時、熊本には専門の医師がおらず、でも県外の病院で診察する気力も無く、何とか引き受けてくれた専門外の主治医は当然手術受けるんだろうと思っていたらしく、びっくりしながらも

「今は断定出来ないけど30歳までは生きられないと思って下さい」

 

そうか…あと数年はいけるのか…じゃあこのままでいいかな…

と死を決めたのに、未だに生きている。

 

それは手術したからで、何故そうなったかというと

癌が見つかったあとに仕事で知り合った、ある人にその旨を知らせると後日、長い長いメールが届いた。

癌の種類、傷跡や予後、術後の障害の確率や症例の多い病院まで隅々と調べ上げていた。

いろんなサイトや本で調べないとここまでは出来ない。

大丈夫だから、手術受けて生きなさい、とも書かれていた。

 

後にも先にも、付き合った人たちですら、ここまで調べ上げてくれた人はいない。

 

その人とは術後疎遠になって連絡しないまま今に至っているけれど、あの時のメールが無かったら手術しなかっただろう。

手術前夜、癌が残っててもいいから絶対に障害が残らないようにして欲しい。途中で閉じても構わないからと主治医に話し承諾書にその旨を追加として書いた。

おかげで障害は残らず、体調の不自由さや大変なことはあるけれどまだ生きている。

ギリギリのところで。

 

 

 

 

 

1年2か月後

地震後変わったことの中のひとつ。

仕事のある日は起きれなくなるから、

休みの前の夜に眠剤を飲む。

そうしないとしっかり眠れないからだ。

 

寝付きにくいのにどうにか寝付いても2〜3時間ごとに目が覚めてしまう。

眠りが浅くて昼間仕事中に眠くなってしまうから目覚めさせるドリンクやらコーヒーやら飲んで、どうにか仕事している。

胃が悪いのが続くのはこれも原因なんだけども、どうしようもないし、どうしようも出来ない。

 

地震後からぶつけてないのに手足に出血痕や紫斑が出ては消え出ては消えを繰り返すようになった。

最初は地震の疲れと、ろくに食べてないからかな、と思っていたけれど1年2ヶ月続いている。ぶつけてないから痛くはない。

 

先日足に大きめのがいくつか出た数日後、腕に紫斑がバラッと出ていて

またか…とじっと眺めていたら

わたし長くないのかもしれない、という思いが脳裏をよぎった。

 

 

 

残業と転職に関わる手続き諸々、内輪の送別会などで慌ただしく睡眠時間が4時間、という日が続く中、健康診断で熊本に帰った。

 もうとにかくだるすぎて頭痛はするし、行きの高速バスでも眠れないくらいで、検診先に着いたらぐったりしてしまった。

ぐったりしたまま検診先のあちこちで血圧やら視力やら計っていたら、

係の人から問診票見たけど大丈夫?と話しかけられた。

実は限界です…と地震後からの話をざっと話した。

係の人は私が20代まで住んでいた町、一番酷い被害の町に住んでいる、というのが分かった。

 

熊本の中でも被害に対する考え方に温度差があって、心無い言動に傷つく事がある、だから転居先で私が言われて傷つくのが分かる、と話してくれた。

そこに住む人にしか分からない辛さも。

 

転居したからもう忘れたんだろうとも言われるけれど、忘れられる訳がない。

ぼんやりした頭でこれからどうなるのかなと考えながら

私も、皆も、また心の底から楽しく笑える日が来るのかな。と思った。

 

辛いしきつい状況だけど、もしかしたら長く生きられないかもしれないなら、少しでも楽しもう、楽しめることを見つけよう。

夏に変わった青空を眺めながら

そう考えた。

 

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いつになったら

毎月14日と16日は私にとって忘れられない日になった。

あれから1年と2ヶ月。

 

時間が経っても、忘れることは出来ない。

いつも地震の事を考えている…ようにはならなくなってきたけれども、ふとした時に「ああ、蛇口から水が出るってありがたいなあ」とか「トイレが流せるって便利よねぇ」とかスーパーやコンビニでは「棚に食べ物がいっぱいある…」なんて思ってしまう。

 

地震の影響はまだあって、とにかく今は決まった新たな仕事に慣れて、バイトしたり持ち物を売らなくても生活が円滑に出来るように立て直すこと、自費で転居した分の補填や熊本に戻ってもいいように、その引越し費用を貯めること、とにかくまだまだ切り詰めること。だ。

いつになったら落ち着くのかなあ、と

一年前からずっと思っている。

 

先日、今の職場で内々の送別会があった。つい避難生活の話をしてしまったが、皆そんなにひどい状況だったなんて…と言っていた。

引き続き避難所にいた人びとは菓子パンや缶詰だけとか毎日コンビニ弁当の食生活とか、お店は時間制限あるし開いてるとこ少ないし、第一商品が少なくて買えなかったですね、と話すと

 

「でもせいぜい2〜3日とか一週間とかでしょ」

 

絶句したけど、避難所のその食生活、数ヶ月続いてたし、私だって宿舎に入居して落ち着くまで1ヶ月ロクなもの食べられなかったし、県外に引越しもあったからまた食生活ボロボロになってたし。

だから今でも胃が変なんですよね。

湿疹もなかなか治らなかったし。

菓子パンはもう見たくないくらいで食べたくないし、頭は染めてるけれどほぼ全部白髪になってしまいましたしね。

そうそう夏頃になるとだいぶ買えるの増えてきたかなあ…

と話すと今度は皆が絶句していた。

 

でも、話すと分かるけれども

熊本の皆、良くあの状況で耐えていたなあ、って思うんです。

良く今まで頑張ってきたなあって。

 

もう頑張らなくていい。

我慢しなくていい。

ワガママって言われてもいい。

それだけ辛かったんだから。

私はそう自分に言い聞かせています。

 

 

 

 

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新しい生活へ

来月で熊本を離れて1年になる。

義援金の類は無く、自費で避難転居した訳だが、未だにその支払の影響があり、初めて税金を滞納したし、仕事は派遣だし生活するので精一杯。

具合が悪くても病院へ行けず、夜食べないとか食事を減らしている時もある。

 

熊本を出るまでの数ヶ月、熊本の住まいと宿舎と転居地の住まいの3箇所分の家賃や光熱費の支払、行き来する交通費、宿泊費、2回分の引っ越し、どうにか使えるが地震の衝撃で調子が悪くなってしまった家電の買い替え、水もガスも使えず食事が作れなくて買い食いが増えて食費もかなり膨らんだ。

 

 

どうして熊本離れたの?と今の職場の上司たちから言われるけど、事情を知らないくせに、と思ってしまう。

けれども、本当にこれで良かったのか

地震の後で正常な判断が難しかったんじゃないのか?などと考え落ち込んでしまうのが増えている。

 

地震、被災生活の中で住んでいたマンションを退去せざるを得なくなり、職場の好意で宿舎に一時入居させてもらったが、元々決まっていた退職を控えているのもあり、すぐ出なくてはならない。

 

やばい。早く新しく住処を決めねば

住所不定無職、になってしまう。

 

熊本で住まいを探そうにも不動産屋は閉まったまま、というより建物が被害に遭っていて

開けられないのだ。(他にコンビニやスーパーなどもそんな状態でした)

かろうじて数時間開いている不動産屋もあったが大行列。

予約しないと受付してもらえない、物件自体被害が多く大きすぎて入居出来ない…

 

熊本の公営住宅の類も全壊した人や家族優先でとてもじゃないけど働いている単身者は入居出来ず、実際断られた。

じわじわ追い詰められ、ふと「どうせ一人だし、仕事探す事も考えると熊本出た方がいいんじゃない?」と思いついた。

 

そして寝泊まりしていた職場で、隣県の不動産情報を検索してみたのがきっかけだった。

仕事が熊本だったため審査も通らず大変だったが、不動産屋が助言したりしてくれて

やっと住む場所が決まったのだった。

ダメかも、と諦めかけたけれど、ふっと道が開けるように転居が決まった。

 

その後、今の仕事が決まったのだが、

様々な困った事があったりで新たな仕事を探していたが、なかなか決まらず諦めて契約更新した矢先に私の経歴を活かせる、ある仕事にまた、ふっと不思議に決まった。

 

世の中には良く分からない事があるなあと思う。

今度の仕事は少しだけど時給アップするから、生活費の為に本や服や持ち物を売らなくても、副業でバイトしなくても良くなる。

しばらくは大節約生活だけども。

 

まだ熊本に戻るか分からないけれど

これで引っ越し代を貯める事ができる。

節約は慣れているけど、地震後から綱渡りの生活で本当にきつかったのだ。

 

 

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揺れる思い

昨年、2度にわたる大地震を経験した。

文字や言葉に出来ない、経験しないと分からない恐怖と数分おきの余震が続く中での不自由な暮らし、県外避難と日常生活そのものが一瞬にして崩れた経緯を忘れないために備忘録として日記にすることにした。

 

題名は地震そのものと次々と様々な決断を強いられたりして、不安な心の「揺れ」を入れようと決めた。

 

いまはフラッシュバックや避難転居地と熊本との狭間で心はあの時の震度並みに揺れて崩れている。

 

先週、転居地でM7クラスの地震が発生する、とかいう情報が飛び交い結局誤報というかそんな情報だったらしいが、ひどく無神経な出来事があった。

 

転居して得た職場で、ある人が「ほら、地震くるってよ」と何か面白い事があるぞ、とニヤニヤしながらその情報の携帯画面をつきつけてきた。

突然の事で何も言えなかったが、後で私たち被災者に対して失礼だ、と怒りにふるえた。

その人は私も含めあちこちの人に随分と迷惑行為を続けていたりと困った人で嫌われている。

勿論地震の事も平気で私の目の前で「どうせ人ごとだから」と言う。

 

だからまたか…と思ったが、数日してまた

地震来なかったですねぇ」とまた面白い事が無かったなあという感じでニヤニヤしながら言ってきた。

さすがにカチンと来たので、正式な情報ではない事を厳しい口調で言った。

あと地震以来、眠れない毎日であることも。

 

 

 

 

 

 

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まだまだな感じ

ニュースで地震の際に滑り落ちた岩、オークション落札され粉砕。という記事を見た。

 

これだけでは真意が伝わらないけれども

詳しい事情はというと、地震の際に道に落ちてきた巨岩があり、道を塞いでしまった。

これでは困る、どうにかしてほしいと行政に頼んだが何もしてもらえない。

支援団体の人のアイディアで(処理の費用を捻出するためと思う)オークションに出したのだったが、落札したのは同じ熊本の業者で、処理の費用も落札した業者が負担しているのだ。

 

処理までに1年かかって、やっと肩の荷がおりた…というニュースだったのだ。

 

行政、ノータッチ。

私だって一切支援が無くて、食料から何から、熊本の住まいも見つからず転居先探しも費用も今まで自腹で全てやってきた。

この地震で感じたが、説明が不十分すぎたり、たらい回しばかりだったりうやむやにされたりして、はっきり言って行政は頼りにならない。

市長に直に言いたかったし、正直、払った税金返せとも思ったことだって何度もある。

 

私だけじゃなくて、自分たちでやらねばならないのがあまりにも多くて、行政に対するイライラもたくさん見てきた。

 

先月、熊本に帰った際に以前の通勤路だった

裏道的な道路を通った。

裏道とはいえ細いけどバンバン車も人もチャリも通る地域の大事な幹線道路だ。

 

だけど。

「とりあえず割れたとこだけ修理しました」

といった状態で道はガタガタしている。

幹線道路はきれいに舗装されているが

一歩入ると通学路で子供達が使う道でも

穴が開いたままやデコボコしたままの道もある。

 

熊本にいるときにこれでは子供達や高齢者とか普段でも歩くのに不自由な人がつまずいて怪我してしまうこともあるかも…と県や市に電話したこともあったが

「箇所がたくさんありすぎて対応出来ない」と言われた。あと、たらい回し。

まあ分からないでもないけれども、話聞くくらいはできたんじゃないかなあとも思った。

 

まだまだな感じが多い。

帰った時に「観光客とか外から見えるとこだけ、きれいにしてるし集まったお金もそういうとこにしかいかないんだろうね」って話も出た。

復興って何なんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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出来なくなってしまったこと

転居先で通勤途中、目の前を歩く女性は当たり前のようにヒールのある靴を履いている。

いいな、と思うけれど私はもう履けない。

似合わないとか脚が痛くなるから、ではない。

 

何度か必要に迫られ、そう高くないヒールの靴を履かねばならなかったけれど、熊本じゃないのにバクバクしてしまってダメだった。

スカートも、身につける時は緊張した1日になる。だから靴だけは歩きやすいものにしている。

 

元々肌が弱いので濃い化粧は出来ないけれど、地震後の酷い湿疹や肌荒れもあって未だに

無添加日焼け止めしか塗れない。

あの時は顔が洗う事すら出来ないのが続いて、除菌ウエットティッシュで顔を拭いていたという経験が化粧らしい化粧が出来なくなった理由の一つだ。

 

地震からこういう風になってしまったのは、

私だけではないらしく、結構いるみたいだ。

 

あの割れた地のように、崩れた建物のように、女性の楽しみ、というかそういったものが

一瞬にして崩れ削り取られた気がする。

 

ずっと地震の事が離れなくて、起きていても

やっとの思いで寝ても夢に出るから本当に

ずっとずっと離れないのだ。

 

 

せめてもと、たまにデパートの化粧品売り場をうろちょろしてキラキラしてカラフルで様々な

化粧品たちを眺めたり、ネイルサロンで爪磨きだけをしてもらったりする。

指先の手入れだけだけでもしぼんだ気分が随分変わるからおすすめする。

 

ファンデーションやマスカラなども転居の際に全て処分した。

ヒールのある靴はリサイクルショップに送った。

もう今後、よっぽどの事がない限り

きちんとメイクはしないだろう。

ハイヒールも履かないだろう。

 

「まだ地震引きずってる」

と思うひともいるだろう。

でも、それだけ深く深く、刻まれてしまったのだ。