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揺れ日記

熊本地震で被災、その後について書いています。

震える夜

夜、Amazonプライムでダーティーハリーを観ていたら何かおかしい。

あれれ、めまいかな?いや違う。部屋に干した洗濯物が揺れている。間違いない、地震だ。

それは長い揺れで、無意識のまま携帯を握りしめ玄関に逃げる。

逃げながら揺れが強くなった場合の水の確保や着替えなどの段取りや避難所の経路を考えていた。

 

本震の、あの時は頭痛で眠れなくて、ダウントンアビーを観ていたらいきなりドン!と経験したことが無い揺れがきたのだった。

夜中と何かを観てたので、また同じ状況だったから震えが止まらなくて仕方ない。

 

速報で震源地は日向灘。震度4。

揺れの範囲が広い。熊本は既に揺れすぎて脆くなっているし、かなり揺れを感じただろう。

今後また大きい地震が来るのだろうか。

 

熊本を離れていても、この長い揺れはダメージが強い。

たとえ少しの揺れでも、ひとりでは持ちこたえられない。

今夜は眠れないだろうなと玄関の明かりをつけ、レスキューレメディを舌下に垂らす。

また明かりをつけたままでないと落ち着かない夜に戻ってしまった。

 

 

 

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どうしたらいいのかわからない

もうすぐ地震から10か月。

先日熊本に帰った時に高速バスの中から見える景色はまだブルーシートの屋根が点々とあり、更地が増え、足場ばかりのビルやマンションに変わってしまっていた。

用事があって月に一度は帰るのだけれど、

帰るたびにどんどん景色が変わっている。

 

信号で止まった時にふと一軒の家に釘付けになった。

周りの家はきれいに修理されているのに

まだ築浅で立派なのに、その家だけ地震後の姿そのままで瓦は崩れ落ち、ガラスも割れたまま(割られたのかも)壁も割れたまま。

基礎がダメになっているのか、柱が腐っているのか、傾いていた。

 

すぐバスが発車したため、あまり詳しく見れなかったけれど、その家は私のように思えて仕方ない。

 

地震後から頼る人もおらず、ずっと一人で、避難所などで寝泊まりし、水が出ない不自由な生活の中で、ややこしく様々な事に対処しながら仕事もこなし、2回引っ越しをし、休む間もなく、慣れない土地での生活と仕事をスタートせねばならなかった。

 

辛くて「辛い」と言っても

転居先では「結局人ごとなんで」と

熊本では「仕方ないし」と

少しだけ付き合った人は「またか…」と眉根を寄せるだけだった。

 

だからもう、辛くても誰にも話せなくなってしまった。

どこにいても聞いてもらえないこと、あの二晩続けて来た揺れの恐怖、また来たらまた一人で対処しなきゃいけない…という思いが強い。

多分、それがキツい原因なのかもしれない。

 

睡眠時間は毎日4時間眠れればいい方で

眠りは浅く、寝た気がしない。

朦朧としたまま会社に行き、朝から仕事中に睡魔が酷くてドリンクやらが手放せない。

食事を作る気にもなれなくて、でも何とか作ろうとしたけれど、また作る気にもなれずにご飯だけは何とか炊いてふりかけとか、もう最近はそれすら面倒になりインスタントラーメンとかパンとか。残業すると面倒すぎて食べない時もある。

ストレスからなのか胃炎やできもの、無意識に口の中を噛んでしまい常にただれてボロボロだ。

 

楽しいことはいっぱいあるはずなのに、

楽しめなくなっている。

たまに外で何か食べても前みたいな感覚が

ない。

私はもう、地震後そのままで復旧もされないまま取り残されている家そのものだ。

いろいろともう限界かもしれない。

 

時々被災者用の「いのちの電話」みたいな電話相談があるよ、と教えてもらうけれど、

12月で終了していたり熊本からの発信じゃないとダメだったり、よりそいホットラインは

「受付終了しております」の寒々としたアナウンスが流れるだけ。

私のように県外へ転居した被災者の相談窓口が、熊本からの転居者が一番多いと言われている福岡市にすら無いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読みました:「夫のちんぽが入らない」

とうとう、この日が来た。

昨年3月、書籍化するという話を聞いてからずっと待ちわびていた本が

いよいよ発売となった。

こだまさんの「夫のちんぽが入らない」である。

ブログ、同人誌のなし水、ペンネの日記、塩で揉む、森のヤマンバ姉。

重いテーマなのにどこかカラッとしていて笑っちゃいけないんだけど笑ってしまう文章にしてしまう、そんな不思議な才能の持ち主のこだまさん。

 

20年一緒にいる夫と性交渉ができない、という内容なのだが、もしも入ってしまっていたら?それより稲妻荘に住まなかったら?

この作品は世に出なかったということである。

これを書くために出会った、いややっぱり前世で兄弟だったんだろうな、ceroの曲になるくらいだから、出会うべくして出会った二人なんだなと思いつつ読み進める。

 

私とこだまさんは年齢も近く、生まれ育った環境も、子供の頃に悩んでいたことなどが似ている。

私も信号も店も無い、猪が頻繁に出没し鍋で食らう山奥の集落で育った。

ブログ中で自分のことを「土人」と表現されていたが、それなら私も「土人」だ。土人さなら負けていない。

誰かの噂話しか楽しみがない、あそこは夜遅くまで明かりが点いていた、なにをしていたのだろうか、とかプライベートなんて皆無な集落。
いつしか人と関わることが苦手になり、居場所を見つけられずにいて息苦しい毎日。

早くここを出たい、一人になりたい。子供の頃の私はいつもそう思っていて、夏でも冬でも毎晩夜になるとこっそり家を出て田んぼのあぜ道で星空を眺めていた。

両親の仲はとても悪く、父から暴力、母からは今でいうネグレクトを受けるというダブルパンチの環境で、中学から離れて暮らしていたのもあり将来とか結婚や子供や愛情、何の希望も無かった。

こだまさんは学校で「人はなぜ結婚するのか」という質問に「わからない」と答えてしまう。

実は私も同じ経験をしており、同志を得たようななんだかうれしいようなそんな感覚になる。

 

彼との生活を経て、こだまさんは「入らない」まま彼と結婚する。

彼のやさしさと人柄が詳しく書いてある。今まであまりそこに触れていなかったから

なぜ結婚したんだー!って思っていたから。

ジョンソンベビーオイルを使ってなんとか掘削に挑むさまも痛々しくて本当なら目をそらしたいけれど、なぜか笑ってしまうのだ。

「なし水」でも登場していたこのシーン、ドラッグストアで見かけるたびに思い出してしまうのだ。「ジョンソン革命」と。

 

 

周りからはすべてが順調だったように見えていたことだろう。

インターネットが普及する前のことで調べようにも調べられず、若い二人はどうしたら

良いかどれだけ悩んだことだろう。

夢にまで出てくるくらいだから。

でもどうして世間は結婚したらしつこく「子供は?」って聞くのだろう。

二人で生きていく、と決めた夫婦もいるのに。

 

 

こだまさんは教師として頑張っていたけれども、学級崩壊という大変で心身ともに疲弊しきってしまう。わたしだったらすぐ投げ出してしまうだろうが、こだまさんはぎりぎりまで頑張ってしまう。誰にも、夫ですら相談できずに。

 

私も、仕事のストレスと過労で突発性難聴夢遊病、不眠、拒食といろんなことがあった。

そしてとうとう癌が見つかり手術したものの「出産は無理ですね」と3つの産婦人科から同じことを言われてしまう体になった。付き合っていた人との結婚話が流れ、このことが原因でうまく男性と付き合えなくなり、だからいまだに独身である。

職種が違うからアレだけれども、「心が追い付かなかった」あの辛さはわかる。

 

退職し穏やかな日が戻ってきたけれども、今度は私も良く知る難しい病気になってしまう。なんということだ。

そんな中、かつての教え子「ミユキ」が頼ってくる。

ここで「できることがあるのなら真っ先に手をあげたかった」「困ったときはいつでも頼って欲しい」という一文であることを思い出してはらはらと涙があふれる。

私は熊本地震で被災し、避難所などでの不自由な生活の中、誰にも頼らず自腹で、一人で、県外転居に踏み切った。

その際にある男性と出会い付き合うことになったが、のちに彼の借金事情が判明。私がお金を出さなくてはならず、転居先での仕事も決まってないし正直生活していけるか不安な毎日を送っていた。

そんな時にこだまさんから「何かしてあげる事はないか」などの熱いメッセージが届く。

遠く離れた、こんな私にこんな温かい言葉をかけてくれるなんて、と。

その後、彼と別れる事になった時もまた、温かい言葉のおかげで勇気を取り戻せたのだ。

続きを読むとこだまさんの夫もまた、生徒指導のために奔走し、とうとうパニック障害になってしまう。そんな夫を支えていくこだまさん。

 

そして徐々に「入らなくてもいい」と性を網走監獄に置き、徐々に解放されていく様がまたこだまさんらしくていい。

40歳を目前にし、もう子供子供と言われないかと思いきや、突如ジャガー横田が横入りしてきたりと大変だけども、ありのまま生きていけばいい。

誰でもは出来ない経験をたくさんしてきた。

それでいいじゃないか、という思いになりながら終わる。

 

昨年この本をこのタイトルのまま出版する、と聞いて大丈夫かと思ったけれども、でもこのタイトル以外思い浮かばなかったし、これじゃないと出す意味ないな、とも思った。

いま、この本を手にし、読む事が出来てとても嬉しい。

こだまさんは子供を産めなくても、入らなくても、ぼんぼん作品を産み出しているので、私はこれからもいっぱい読みたい。

 

こだまさんと初めてお会いした時、とてもまじめで清楚でキュッとした、芯が強いけれど顔も雰囲気もかわいらしい人だなあ、とても「ちんぽ」と書きそうにない…と思いつつ少しお話をした事を被災後の辛い避難生活の時に思い出していた。

またお会い出来るのを楽しみにしています。

年末の熊本城

熊本城はこの地に住む皆のシンボル。

あちこち職場が変わったけれど、長いこと見ていたお城だ。

地震で崩れた姿を職場のテレビで見た時はみんなショックで言葉が出てこず無言で観ていたっけ。

 

4月の地震以来、いろんな事がありすぎて

まだまとまらない。

転居先の、今の職場で避難所で段ボール敷いて寒くて震えながら寝泊まりしていたこと、給水やスーパーでの行列、2回の引っ越しの話をするとそうかぁ…という表情をされる。

 

あちこちで地震がある日本。

防災意識を高めるため、経験してきたことを少しでも伝えなくてはと思っている。

 

年末迫る日にお世話になった人に会うため熊本に向かう。

節約のためバスで向かったのだが、高速道路の益城ICが近づくと帰省もあってか酷い渋滞。

誰かの舌打ちと文句が聞こえるけど、私は想定していたから2便早いバスに乗ったのだ。

 

ぼんやり外を見るとブルーシートの家は以前に比べ減ってきた代わりにまた更地が増えていた。

住んでいた場所近くを通ると、良く通ったスーパーも、見慣れたガソリンスタンドも、病院も、誰かの家があった場所も、みんな更地になってしまっていて景色が変わっている。

前に聞いた話で確かな事はわからないけれど、私の住まい周辺は地表のズレの真上らしい、だから被害が酷かったんだとか。

 

マンションやビルは補修工事のための足場や重機ばかりで物々しい。

 

2便早いバスだったからやっぱり早く着いてしまい、熊本城を見に行く事にする。

いつも通っていた行幸坂は閉鎖されていて、はてどのルートで行くか考えていたら周遊バスを見かけて乗り込む。

今は城彩苑、という施設だが、ここができる前は城内プールがあって、深くて足つかなくて怖かったんだよ…とか思い出す。

バスの運転手さんが私が夏まで住んでいた事など知らないから観光客向けに城の歴史や通行可能ルートについてアナウンスを始める。

バスは遠回りしてかつて合同庁舎のあった場所から国立病院、YMCA手前から二の丸広場に向かうルートだった。

ああ、こっちかあ…遠回りだなあ、帰りは何処から歩くかなあ…と考えていたら二の丸広場に着いた。

 

いつもなら手入れされた芝生で、猿を連れてるおっちゃんがいて、駆け回る子供達がいて…という広場だけどもフェンスや土嚢で通行止めにされており、警備員があちこちに立っており、フェンスの向こうの敷地には石垣が並べられ、真っ黒の土嚢らしきものが積まれ、足元はぬかるんでいて歩きづらく、天気のせいかどよんと淀んだ風景に変わっていた。

水たまりでドロドロになった足元を見て、かつてヨガのレッスンでこの広場で気持ちいい時間を過ごした事を思い出して悲しくなる。

いつかまたこの広場からフェンスや石垣や土嚢が消え、また子供達が芝生の上を裸足で駆け回る日がくるのかな、と。

 

お土産屋がある建物の瓦は崩れたままで無残な姿と化していたし、見渡すとそこにあったはずの確か薬研堀の上の塀も、櫓も、崩れたまま。

城はあちこち写真などで見ていたから分かっていたけれど、やっぱり酷い。

 

県立美術館の雰囲気とカフェが静かで好きだけどもどうやら閉館になっており、赤煉瓦の建物だけが寒々と佇んでいた。

毎年会社での花見会場となっていた監物台樹木園の前を通り、かなり急な棒安坂を下るルートは通れたのでそこから出る。

KKRホテルを通過し県立美術館分館前の不開門(あかずのもん)近くの北十八間櫓だろう櫓たちは地震後の姿そのままで崩れたままになっている。変わったことといえばブルーシートが剥がされていたくらいだ。

 

本当なら刑部邸まで行きたかったけども、雨とぐったりしてしまったので、鶴屋に向かいひと休憩することにした。

 

年末の鶴屋は混んでいて、さすが郷土のデパートだな…とぼんやりしながら待ち合わせの時間まで待つ。

ざわついたいつもの年末の風景だけども「頑張ろう熊本」とかいうのを見るとああ、やっぱり違うんだなあと思ってしまう。

 

あちこちベタベタ貼ってある「がまだせ」って頑張れじゃなくて、仕事しろっていうときの意味合いで使う方言なのになあ、言葉だけが独り歩きしている。

あと、被災した皆はもう頑張れないよなあ、とも思う。

 

地震後お世話になった人からは、私の生活を心配していて御飯をご馳走になってしまった。

また会おうと約束をして別れる。

中心部は活気があるけど、ちょいと入ると取り壊すのか補修中なのか分からない建物もある。

 

ここは住み慣れ見慣れたところだけど、私の帰る場所が無い。

 

 

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フラッシュバック

博多駅に用事があって、向かうバスの中から

独特の車両が通るのが見えた。

自衛隊の、あの色のトラックだ。

熊本に住んでいた時は駐屯地が近い場所にあったから良く見かけていたが、転居してからはあまり見かけなくなった。

 

続けて2台くらい見た時だ。

涙と震えが止まらなくなりだしてパニックに陥った。

心臓がバクバクしだして、止まらない。

 

そう。地震の時にたくさん「災害支援」のついたあの色のトラックがばんばん通っていたのだ。

朝、避難所から出勤するときも

職場への給水の時も、退勤後、今夜も避難所に泊まるか考えながら一旦着替えの為に帰る道でも、手続きに行った市役所でも、福岡に一時避難する時も、熊本に戻ってきた時の駅でも、どこに行ってもずっと自衛隊の「災害支援」のたすきをつけたトラックを目にした。

 

もちろん、感謝はしきれないくらいにしている。

自分たちは冷たい缶詰を食べ、不眠不休で被災者への温かい食事のために炊き出しや風呂、瓦礫の片付け、道に積み上げられ通れなくなっていたゴミの回収。

私の職場へも水が濁ってしまい、確保できなくなっていた間、給水をしてくれ、透析しなくては生きていけない患者さんが助かったのも、事実だ。

 

だけども、あのトラックを見ると

崩れたビルや家、通れなくなった歩道橋や瓦礫や、がらんとして殺伐とした道路や

給水や臨時で販売しているスーパーでの、見たことないくらいの行列、数時間並んでやっと手にした給水袋、避難所の、体育館の固く冷たい床で眠れず横になっていたことや常に揺れてビクビクしていた、あの時を思い出してしまうのだ。

 

 

転居後、夏にある駐屯地の花火大会に連れていってもらう機会があった。

新しい、慣れない仕事が始まったばかりで疲れていたのと夜であまり見えないのと、人の多さと、花火に夢中で見えなかったが、帰りに遠くに停められた、闇夜に浮かぶあの車両が目に入ってしまった。

その瞬間、思い出してパニックに陥ってしまったが、同行者が気にしたり、またか、という表情が嫌だったので、その時は抑えて平常のふりをするのに必死だった。

 

自衛隊ではないけども、博多駅近くで陥没事故があった時、数日たくさんのヘリが飛んでいて

その、ずっと飛んでいるヘリの音でもバクバクして震えていた。

 

地震後、取材なのか輸送なのか昼夜鳴り止む事の無いヘリの音。

救急車なのか消防車なのか、はたまたガス会社の緊急車両なのか聞き分け出来ず、あっちこっちから聞こえるサイレン。

未だにヘリの音でもサイレンでも、バクバクは止まらない。

 

 

 

 

 

 

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輝く夜

先日、好きなアーティストのライブに行ってきた。

ceroという3人組で福岡でのライブはかなり久しぶりらしい。

地震前は歩きで通勤していて、毎日ceroの曲を聴いていたからもうそれは歌詞がすらっと出てくるくらいに耳に馴染んでいる。

だけどライブに行くのは初めてだし、どんな感じか分からないけれど、プロレスも生で観ると感動するように、やはり音楽をその場で見聴きするのはまた違うはずだ。

 

先月から仕事がとてつもなく忙しくなり、毎日残業、前からやらねばと思っていた事を再勉強したり、熊本に帰ったりして休みも超多忙。ライブがあることをすっかり忘れており当日の朝思い出して慌てて支度し直して出勤。

 

実は本当ならば彼と行くはずだったのだが、いろいろあって半年で別れてしまった。

そういえば8月にこのライブのチケット予約をしたのに、前職の給料と転職先の給料の間の無収入の中、どうにかやりくりして支払いしたのに、彼はとうとう代金を払ってくれなかったなあ…と思い出す。

 

残業になりそうかな、という状況だったのに、夕方奇跡的に定時で帰ることとなった。

ceroすごい。

 

会場入りして、一人でミルクティーを飲んでいると男性も女性も同じように一人で来ている人が割といて安心する。

きれいでお洒落な曲が流れる中、(メンバーの一人、あらぴーこと荒内氏の選曲でサポートメンバーのソロの曲とのこと)だんだんぎゅうぎゅうづめになってきて知らない人とうわー、人酔いしますねー、などと話していると

ふっと暗くなりメンバーが集まり、演奏が始まった。

 

新曲以外は歌えるものばかりで、一緒に歌いながら曲に合わせて体を動かしたり、拍手したり、疲れているはずなのに、それがとても楽しくてステージで演奏しているメンバーやミラーボールがキラキラしてるのを見て、素敵だなあと思っていた。

 

Orphansが流れ出すと、地震前の熊本での毎日や通勤路の風景を思い出していた。

あの頃は判で押したような毎日で職場と家の往復、仕事は残業も早出もあって大変だったけれども、それ以外は定時で帰ることが出来て

安い日や時々レイトショーなんか観たりして、今に比べたらそれはそれはゆっくりした時間だった。

3月に出掛けた東京の、阿佐ヶ谷のごみごみした魅力的な街も思い出していた。あの一夜は本当にとても楽しかった、でももう戻ってこない時間。

 

キラキラ黄金色に輝くステージで楽しそうに歌う高城さんを眺めながら、ああ、できることなら、タイムマシンがあるなら、地震前の毎日に戻りたい戻りたい…と涙が出てしまって、ステージが滲んでいた。

彼の前ですら泣けなくて、ずっと耐えていたのもあって感情がどっと溢れ出てしまう。

 

 やっぱり、地震で自分が思う以上にストレスがかなり蓄積されていたんだな、被災して職場からの残留を断り、福岡に転居し転職したことをこれで良かったんだと思っていたけれど、本当に良かったんだろうか、自分で決めたことだからと思っていたんじゃないか、熊本に戻るか、とかそんな事を考えていた。

 

でも、時間は戻ってこないし、帰る家も無いし熊本に戻る事もまだまだ無理だ。

 

でも、眩しいステージで演奏している様を眺めながら、曲に合わせてゆらゆらしながら、歌いながら、少しずつ元気が出てくるのがわかったし、嫌なことや悲しいことがあって、また一人になったけれど、この夜を皮切りに変わるような気もしてきた。

 

音楽で元気に、とかいうのは嘘だろうと思っていたけれども、あれは本当だなあとこの時感じた。

すごく良い演奏でこの時間が冷凍保存出来たらなあ…と思いながら会場を後にする。

立ちっぱなしの上、とんだり踊ったりしてくたくたで、風邪気味ぽいのに帰り道は妙に元気だった。

 

Orphansの歌詞で一番好きな

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて あぁ 僕たちは ここに いるのだろう

と口ずさみながら、思い切って来て良かったな、 リセットして新たに出直す、輝く一夜となった。

 

 

 

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月の夜

「もう」なのか「まだ」なのか分からないけれど、あの2回の地震から7か月。

熊本から離れるまでは毎日余震で揺れの中で仕事をし、生活をし、夜は灯りをつけたまま浅い眠りで過ごしていた。

疲れはミルクレープのようにどんどん重なり

未だに取れないでいる。

 

もう揺れはたまにしかこなくて、慣れたよーと前の職場の同僚からメールが届く。

そうか慣れたのか、私は慣れなくて、揺れが嫌で飛び出したんだけど。

 

ツイッターで月を見るのがまだ怖い、という内容を見て、ああそうだ確かに月の夜だったっけと思い出した。が、月だったのか、発電機で点いていた外灯だったのか記憶が曖昧でぼんやりしていているけれど、月ということにしよう。

 

1回目よりも2回目の地震は真夜中で本当に生きた心地がしなくて、道路が波打ちひび割れていく様を初めてこの目で見た。

 

とにかく公民館に避難しよう、と割れたいろいろなものが散乱している歩道をおそるおそる歩き1人で長椅子に座ったまま、うとうとしかけた時に、

給水車が来ました!一世帯1袋です!皆様に行き渡るかどうかは分かりませんので並んでも配れないかもしれません!

と声が聞こえてきてとにかくぼんやりしたまま列に並んだのだった。

 

水が止まった公民館のトイレは既に悲惨な状態で、水が大事というのが皆ひしひしと感じていたのか、誰ともなく給水車が停まっている外に向かい走っていた。

外は暗く何時なのか分からないし、寒くて着の身着のままだからガタガタ震えながら立って列に並んでいると、

これからどうなるんだろうかとか昼間に風呂に水溜めたんですよー、とか前に並んでいる私とそう変わらない年齢の、主婦らしき女性たちがキャッキャと喋っているのを聞きながらふと見上げたら月が出ていて

 

あー、こんな夜も変わらず月は出てるし

他の地域ではいつもの週末なんだろうなあ、

暖かい部屋で不自由無く過ごしてるんだろうなあ、何で貰えるか分からない水の行列に並んでんだろ。

 

水道局の職員は黙々とこぼさないよう、大事にビニールバッグに水を入れている。延々同じ作業だ。

だんだん順番が近づいてきてどうやら水がもらえるかな…と思っていると、前に並んでいた女性たちが職員に「ご家族もいらっしゃるのに…ありがとうございます」みたいな事を言った瞬間、職員のひとりが一瞬キッと睨んだような表情をして黙ってバッグを渡していた。

女性も良いこと言ったはずなのに、という表情のままびっくりして「…ぁあ…じゃあ」などと

言い去っていった。

 

どんな思いでここに来ているのか、それぞれがそれぞれの事情を抱えている。

 

私の順番が来て、黙ってバッグを受け取ったかどうか、記憶が定かではない。

ただ月が煌々と照らしてて意外と明るかったことは覚えている。

 

あれからいろんなことがあった。

住まいや職場やらが短いスパンで変わり

出会いと別れと様々に忙しく

残ったのは疲労のみ、という毎日だ。

 

ただ、何があっても前を向いていかねばならないと思っている。

そして、わたしもまだ月を見るのがちょっと怖い。

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